籠の中の乙女 DOGTOOTH 

今回は初めての試み、映画について感想書いていきます。

あ、ちなみにネタバレはしまくります。

自分の好きな曲のこととかはベラベラ書けるのに、映画のこととなると、少し怖気付いてしまいます。

なんか深い考察とか書かなきゃいけないのか?とか『それは違うと思います(キリッ)』ってツッコミ来たりしそうで怖い。

まあ、思ったことテキトーに書くのでなんか思っても『こいつ分かったふりしやがって〜〜』くらいにとどめといてください。

 

それでは記念すべき第1作目は

『籠の中の乙女』です!!原題はDoogtooth、犬歯ですね。

題名は犬歯のままでよくないか、原題知った時『うそ!!』って思ったよ。

監督と脚本はヨルゴス・ランティモス。2009年のギリシャ映画です。

カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリ受賞や、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートもされた作品。

 

友達に勧められて観たこの作品、本当にずっと気持ち悪かった…..。

綺麗な映像、淡々と流れる、時には平和な日常、そして一貫して乾燥したすがすがしい空気。

観てる間に感じていたこのぞわぞわとした感情はなんだろう、と思っていたんすがエンドロールが流れる中

ため息を吐きながら隣の友達に、思わず『気持ち悪かったね』と言ってしまいました。

友達も私の言葉に頷き、やっと自分を支配していたものから解放されたような安心感を覚えました。

拒否反応のような『気持ち悪い』ではない、ネガティブな意味しかないけど、『怖い』とか『やめてくれよぉ』と言ったような『気持ち悪い』です。

露骨にグロくもなく(最後はちょっとね)ひやっとする場面もないのですが、ひんやりと侵食してくるような、見知らぬ人がずっとそばに立っているような、気持ち悪さがあります。

ずっと『気持ち悪い』しか言ってないな!でも真っ先に思い浮かんだ言葉がそれ。

 

やっとここであらすじ〜〜〜

過保護な両親が、三人の我が子を完全に家の敷地内で生活させる話。

危険だと教えられ、一歩も外の世界に踏み出したことのない三人の子ども(と言っても皆成人)

しかし、父親がある日連れてきた女によって、完全であった家族のユートピアは壊れ始める……

〜〜〜〜

っぽい!!頑張ってあらすじっぽく書いてみたけどめっちゃ苦手だな〜!!

 

それではここからネタバレしまくりの感想書いていくよ!!

最初の場面は、三人の子どもがカセットで単語を学んでいくシーンから始まる。

でも単語と意味がしっちゃかめっちゃか。 『海』の意味が、革張りのアームチェア、だったり。

しょっぱなから『あ〜〜、そゆ感じ….』と察しちゃうよね。

ここでの新出単語は『海』『高速道路』『遠足』『カービン銃』

全て『白い鳥』や『硬い建築素材』などのチグハグな意味に置き換えられます。

例文なんかも『シャンデリアが落ちたが、床は傷一つつかなかった、なぜなら床は”遠足”でできていたから

おぉ、なんかオシャンティ〜ってちょっと雰囲気にのまれそうになるんですが

ちょっと待てと。この子達の世界は完璧に両親の手によって作られているんだ、と。気づけよ、と。

で、ここで出てくる単語も『海』とか『高速道路』とか外の世界、もっと遠い場所に繋がるものの名前で、両親が子どもたちに教えたくない言葉たちなんだなと。

場面は変わって、父親が目隠しをした女の人を助手席に家にやって来ました。

この女の人は長男のリピド〜の解消をします。(たぶんそのためだと思うんだけどな)そのシーンなんかもほんと事務的で、なんか見てられないって感じ。

ペットボトルのラベルもいちいち剥がすくらい慎重な父なのに、外部からの女の人はいいんや。

外の世界からやってきたこの女の人(クリスティーナ)は、言葉をそのままの意味で使います。長女と会話する場面では、おそらく二人は同年代くらいだと思うのですが、長女の幼さ、子供っぽさが浮き彫りに。

 

夕ご飯の時、次女が母親に『電話をとって』と言います、母が彼女に手渡したのは。やはり外の世界に繋がるものは言い換えられている。いや、この場合は塩が言い換えられているから、ちょっと違うのか?

その電話機は、両親の寝室の戸棚に隠されるように置かれています。

使うときはわざわざ取り出して、母が職場の父に電話します。

それを聞こうとドアにぴったりはりつく長女。電話をしている母は、子供たちの中では『独り言をいう母』です。

長男は、家の周りに張り巡らされた塀に向かってなにやら語りかけています。自分の掃除の腕を誰かに自慢するような。

あ、塀の向こうには兄弟がいる、(住んでいる)という設定なのね。最後は塀の向こう側に石を投げ込む彼。

それが両親に見つかって、モンダミンの刑。もう立派な大人ですが、眉顰めて必死にミント味に耐えます。

長女は長女でケーキを塀の向こうに投げ入れます。二つだから、二人兄弟が向こう側にいるっていう設定なのかな。

この家では『犬歯が抜けたとき、外に出れる』というルール。

まあ、もう三人とも大人だし、犬歯が抜けることはまずない=一生外に出ることはない ということ。

 

クリスティーナはカチューシャをあげる代わりに、長女に自分のモノを舐めさせます。(書けんかった。。)

カチューシャをゲットした長女は『舐めてくれたら、いいものあげるよ』と妹に持ちかけます、

(まじか…)と思う私をよそ目に、『肩を舐めてくれたらいいよ』という長女。ホッとする私。彼女にとっては肩もあれもただの体の一部であってそんな大した違いはないんだ。

飛行機のおもちゃをとりあって喧嘩したりはするけど、とりあえず平和に日々は過ぎていきます。

そこでいきなりネコの登場

今まで見たこともない謎の生物に兄弟たちはパニック、長男はネコを殺してしまいます。

それを知った父親。スーツを切り裂き、血糊を塗りたくり(この場面はけっこう滑稽)帰宅します。

『塀の向こうの兄弟は、どう猛なネコという生物によって殺されてしまった。彼らは外に出てしまったからだ。』と。

そしてネコに対抗すべく、みんなで四つん這いになり犬の吠えを練習する家族。みんなでバウバウと吠えまくりです。

一緒に吠えてる母親、どんな感情なんだ?

ここから気持ち悪さがどんどん加速していきます。

飛行機が空を飛んだら、母が飛行機のおもちゃを庭に投げます。子供たちはそれを必死に拾う。外から来た飛行機は庭に墜落したと思っているよう。この家で世界は終結します。

このおもちゃに対しての執着心は長女が一番持っているように感じます、一回長男に取られたときは興奮してしまって彼の腕をナイフで切ったりもしました。

彼女が一番、外界に対して興味をもっていたのだと思います、だから外からやって来た飛行機に人一倍敏感に反応する。

 

ある日、いつものようにヘアジェルをあげるから”キーボード”を舐めるように言ってきたクリスティーナを長女は断固拒否。

ヘアジェルの代わりにビデオテープが欲しいと言います。さもなくば今までのことも父に言いつけるという彼女の迫力に、クリスティーナもしぶしぶ了承。

皆が寝静まった深夜にビデオを観る長女、きっと中身はジョーズとロッキー。

ロッキーの映画の真似をして窓際で自分の顔を殴ったり(迫真の演技で見ているこっちもイタイ気持ちになる)、人食いザメの真似して兄を襲ったり。

そんなことしてるから父親にとうとうビデオを見ていることがバレます、そしてビデオテープでこれでもかと殴られる、痛そう。

しかし彼女の外の世界への憧れはそう簡単には消えません。妹には『私をブルースと呼んで』と言います。

そしてクリスティーナは父親にビデオデッキで殴打されます、容赦なし。そしてもう2度と家に来ることはありません。

 

その夜、父親と母親が口パクで会話をするんですが、そこがぞわぞわするような気持ち悪さ。完璧に無音ではなく、少し息が漏れているところとか、ムニムニ口を精一杯横に広げて喋ってるところとかが『ア〜〜〜〜』って叫びだしたくなるくらい、粘着的な気持ち悪さ。

そしてなんとクリスティーナの代わりとして選ばれたのは長女でした。

胸やお尻の触り心地で妹たちを選ぶ兄の姿とか、私の今まで生きてきた世界をぶち壊すよね。

そして、裸の兄が待つ部屋に化粧をした長女が、母によって送り込まれます。これから近親相姦をさせられる長女に化粧までする母の感情ってなんだ?(2回目)

この映画は静かな狂気に包まれているが、一番狂っているのはこの母親かもしれない。

誕生日会のシーン、ダンスも独特で体操みたいな動きも入りつつ、最後は痙攣するみたいになって踊り続ける長女。

母親に止められて、勢いでそのままケーキを貪り食べる長女見る次女の表情に、私もなっていました。

その日の夜、長女はダンベルで無理やり自分の犬歯を折ります。このシーンは一番直接的にきつい。

外に出る条件を強引にクリアし(きっと両親も想像していなかったやり方で)、彼女は外へ飛び出します。

そして車のトランクの中へ。

長女の不在に気づき、家族総出で探し回りますが、結局見つけることはできませんでした。妹が『ブルース!』と呼んでいたことが印象的。

次の日の朝、父親は職場へ向かいます。車を降り、カメラは長女が入っている車のトランクを映し続けます。

しかし最後まで彼女がトランクから出て来ることはありませんでした。

外には出たけれど、結局『家』から出ることはできなかった。

 

子どもを一切外に出さないというのは、両親の愛情なのだと思う。(それが異常であるにしても。)

外には危険なこともあるし、仕事や人間関係で辛いこともあるだろう、世間の俗な空気に穢されてしまうかもしれない。

家にいれば、そんなことは体験しなくていいし、それが幸せであると、彼らは考えた。

それならば、この安全な、完璧に自分たちがコントロールできる環境下で子供たちを育てようと考えた両親。

この映画を観ながら、私はまだ学校にも通う前の、家族だけが世界だった時のことを思い出していた。

とても安らかだった、敵は誰もいないし、何を頑張らなくても父も母も優しく、とても幸せだった記憶。

 

しかし、何も知らない、からこそ外の世界に憧れを募らせ暴走した長女。

何も知らなくても幸せそうなベットの上の長男と次女。この家族の平穏は続くのだろうか(というかすでに崩壊している?)

 

ずっと幸せとは何か、と考えていた。

きっぱりとこれは子どもたちの幸せではない、と言い切れない自分に一番気持ち悪さを感じていたのかもしれない。

 

なんだか実況中継みたいになってしまった。きっとここまで読んでくれた人は、もうこの映画を観ているであろうから、ここまで丁寧な情景描写は必要ないだろうとは思っているけれど。

次回はもう少し書き方を工夫したいな。

それでは、また。

この映画見てからしばらくは『いいえ』をオウヒ、って言ってました。

 

 

 

 

”ゾンビは黄色い小花”

 

 

 

 

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