小学生の遠足にしてはまあまあの遠出をして、電車に乗っていたとき
保健室の先生は私の向かいに座った。
そのとき私は遠足中に熱を出し、迎えに来た母が待つ駅に向かっていた。
私はぐったり寝そべって、ひんやりしたプラスチックの座席で体を冷やしていた。
向かいの先生は穏やかにそのままでいて、それだけで私は安心していた。
その人は今まで出会った中で一番慈愛に満ちた保健室の先生だった。
転校してから、気づいた。
私はよく保健室にいく子で、(鼻血がでたときとか)特に何がなくてもよくおしゃべりに行っていた。
別に授業をサボっていた、とかそういうわけではない。
気軽に遊びに行っては、お茶と一つのクッキーをつまみながら色々話した。
絨毯が敷かれて、いつでも暖かく、そして心地よく狭い部屋。
電車の中では、自分がアトピーで首にかかる髪が煩わしくてかゆい、という話をした。
『髪の毛を伸ばしてさ、結べばいいかもね』と保健室の先生は言った。
(でも私は短い髪の方が似合うんだよな、アトピーのためにそれを犠牲にするのも癪だな)と思いつつ私は頷いた。
大人になるにつれ、アトピーの症状は軽くなり、今では時々膝の裏が痒くなるくらいだ。
『私ね、誰も見ていないときにいいことをするのが好きなのよ』と先生は言った。
『例えば、自分しかいないトイレでちょっと拭き掃除をする、とか』
当時、小学生だった私は全く共感できなかった。
いいことをしたら、褒められたい。誰かに見ててもらいたい、『いいことしたね!』と言われたいし。
(一人でいいことをやって、それはなんの意味があるんだろ?ちょっともったいない気がするな)と思ったけれど私は頷いた。
大人、というものは一周してそんなことに喜びを見いだすのかと思った。
でも昨日、トラムの線路上に落ちていた帽子を轢かれないようにさっと拾って
側の柵にかけたとき、先生の気持ちが少しわかったような気がした。
その行動は誰にも見られていなかった。
もし友達が側にいたら、同じことをやっていたかわからない。
『いいこと』を人前でやるのは小っ恥ずかしいむず痒い気持ちがあるし。
本当の気持ちからやったかわからないし。(いいカッコしい、のような)
でも一人で、なんも考えずに『いいこと』をしたときに
その行為はもっと純粋なものになった気がした。
自分しか知らない、いいこと
先生がいっていたものとは違うかもしれないけれど、それでも気持ちのいいことだった。